This is a transcription from the first chapter of Parano Evangelion, to begin with (pages 006-0032). There're footnotes too, but I have not yet transcribed them. Soon I could provide original text scans through the Italian Evangelion Wikia or Drive.
SPOILER: Show
もう, 僕は勉強しない [pp. 6-12]
竹熊: いきなりでなんですが、庵野さん、やたらとファンの批評に対して攻撃的ですよね。
庵野: ファンの批評ですか?まあ批評以前というか、ただの悪口というのが大半なんですけど。作品のことも書いてる本人自身のこともわからずに書いてるみたいですね。表層的な方法論の部分でしか語れないわけですよ。それはいいんですけど、自覚が伴っていない。世間と自分が客観できてないんですね。そういう人ほど積極的に外界との接触を望んでいる。自分が絶対に傷つかない範囲でですが。だから声を大にして意見を言う。
竹熊: うう。今回は最初から飛ばしてますね、庵野さん(笑).
庵野:「エヴァ」は注目されてますからね。効率がいいんですよ。悪口言いやすいし。もちろん中にはありがたいとか励ましになるとか嬉しくなるとか、素直に感謝したり喜んだり、意義というか、やってよかった、と感じるものも多々あります。ただ、物を作っている人の言葉の中にはやはりシンバシーを感じるものが多いですね。
竹熊: 作品の作り手の方が、まだ理解してくれる度合いが高いと?
庵野: そうですね。血を流して物づくりに没頭しているような人の方が、 (「エヴァ」との)シンクロ率は高いと思いますね。日々, のんべんだらりと過ごしている人は、もう全然... 。いわゆるオタクって自分の世界を大事にするんですよ。それが自分の世界だから。そういう人に世間を見ろと言っても、難しいんですよね。世間に染まったらそれはオタクではなくなってしまうし。だから自分の世界に固着してしまう。インテリと同じで自分の知っている世界、自分の理解可能な範囲でまとめてしまうんですね。他を知る必要もないし、認めることもない。関係ないんですよ。だから例えば(「エヴァ」の)二五話〜二六話[1]をですね。確か「トーキングへッド」だったかな、押井(守)さんの作品のマネだと括ったりしてしまうんですね。自分の知っている世界で一番近いものが押井さんのそれしかなかったりするわけなんですね。あくまで表層的方法論にしか過ぎない部分で。そうとしか認知できないんですね。もら、そうせざるを得ない。僕はそれ、見てないのに(笑)。ただ、(そういう当てはめをするのは)僕もそうなんで(笑)。(他人の)アメ見てたりすると、反射的に「あ、あれだ」と思ったりしますね。
竹熊: そういらことを言わないで、それは庵野さん、黙ってればいいじやないですか。作品に対して何を言おらがファンの勝手でしょう。
庵野 : 確かに黙ってりゃいいんですけど。相手にし過ぎというか、サービス過剰だとも言われるんですが。要はバカなんですよ、自分が。(ファンの言動を見ていると)どうも自分を見てるみたいな感じもあって、言ってしまうんですね。しかしまあ、最近は「人を見て法を説け」という言葉が身にしみてます。何を言っても悪意としか解釈できない人もいるみたいだし。ただ嫌われてるだけだとも思うんですが(笑)。まあ悪意も善意も自分との関係という点から見れば等位ですから。悪ロ言われてるだけマシって部分もあります。ただ、そういう意味でも黙っているよりは言った方がいいか、という気持ちもありますね。言われたことで初めて手にする情報ってのもあるわけじゃないですか。どう受「け取られるかはその人によりけりですけど。ただ、そう言うことで自分を客観視するチャンスにはなると思うんですよ。自分を相対的に知って損はないと思うし。周辺の現実を認めて現実原則の中でオタクとしての自分の在り方を考える場のもいいと思います。それは余容につながりますからね。....こらいうこと言らと偉そらに聞こえるんですけど。まあ、さすがにもう言ってもせんない気もするし。ああ、でも、野火ノビタさんの批評はグーでしたね。読んで、ぜひこちらからお会いしたいと思いました。いちおら、コネで電話番号を間接的に聞いたんですけど。
竹熊: まだ会ってないんですか。
庵野 : この間、お会いしたんですか。方友達に、コミケで野火さんが出したエヴァの同人誌を買ってきてもらったんです。読んで、ぜひお会いしたいので連絡したら、ずっと旅行中で会えなくて。結局 「別冊JUNE」の対談が最初になっちゃいました。
竹熊:(野火氏の論文を読んで)ああ、庵野さんのこと「分裂病」って書いてる(笑)。なるほど。実はこないだ大泉さんともそういう話はちょっと出たんです。やっばり庵野さんは分裂気質だろうと。大泉さんには、そうい女達が多無いんですよ。
環集部(総田): 呼ぶよね。あの人は。
竹熊: 呼ぶ。ただ僕は最近知ったんだけど、大泉さん自身にも、けっこ呼ぶ。うエキセントリックなところがあるんですよ。
庵野: 分裂病がわかるのは、分裂病の人だけですから(笑)。
竹熊: 大泉さんの守護神はガメラなんだそうです。それで「ガメラ2」を見て三回泣いたという(笑)。
庵野: いい年してそれはヤバイですね(笑)。
竹熊: それで今度、破防法がオウムに適用されるかもしれないじゃないですか。そしたら捕まるんですよ、大泉さん(笑)。ああいう文筆活動(オウムへの "入会"ルボ)やってるとね。それでもう妻子と水杯かわしてるんですよ。
庵野: よく妻子ができましたね。
竹熊: それで妻が元アニメ同好会という(笑)。(こりで大泉氏登場)
大泉: どうも、遅くなりまして。何、話してたんですか?
竹熊: いや、別に(笑)。じゃ、始めましょうか。
故郷では優等生 [pp. 12-13]
大泉: 今回は、庵野さんの個人史をお聞きしたいと思うんです。とりあえず、子供時代の話あたりから。どんな子供だったかとか。
庵野: どんな子供なんでしょうね。
竹熊: ご出身は山口県ですね。
庵野: ええ。山口県宇部市です。もう、ド田舎です。保守的なところです。僕は、学級委員をずっとやってましたね。まあ、まじめタイプに見えたんでしょうね。根が臆病者ですから。
大泉: 毎回、立候補したんですか?
庵野: ああいうのは立候補はないんですよ。早い話、ゃらされてるという。ウチの親も喜んでたし。田舎の発想ですよね。ただ、嫌じゃなかった。
大泉: いじめとか、いじめられたとかいうことはありました?
庵野: うーん , あんまりないやす。中一の時に、体育会の先輩にちょっと、ああ、これがいじめなんだろうなというのはありましたけれど。でも、その人だけなんです。それ以外には、そういう経験はないです。ケシカもほとんどない。殴り合いのヶンカって、数回ぐらいしか。まあ昔からこういう顔だったんで、「外人、外人」って呼ばれたりとか。その程度なんです。本当にいじめられてるクラスメイトは別にいましたからね。中学の時までは、どっちかと言うと、優等生の方です。中学になると関実力テストで順番が出るじゃないですか。あれが学年の二〇番ぐらい。ちょっと調子がいい時は、一〇番台ぐらいで。
大泉: 最大出力で一ヶタになるという感じですね(笑)。
庵野: 一度、勉強しなかったんですよ。勉強しなかった時、八六番まで落ちてまして。それで先生に「なんで勉強しないんだ」って言われて、「面白くないんですけど」って答えたことがある(笑)。
もう、家族のこと [pp. 14-15]
大泉: 実家は海とか近いんですか。
庵野: 遠くはないです。でも海水浴なんか、行かないですね。
大泉: そうなんですか。いや「エヴァ」を見ると、夏と海のイメージが強いので。
庵野: なんでですかね。家族とはめったに海へ行かないんです。母親の皮膚が弱かったのと、親父に足がないんで。人前で裸になるからつらかったんでしょうね。何度か潮干狩りに行った記憶しかないっス。
竹熊: 家の教育方針はどうだったんですか。過保護か、放任かみたいな。
庵野: 中途半端ですね。あんまりどっちとも言えない。
大泉: ご兄弟とかは。
庵野: 妹が一人。でも年が七っも離れてるんで、あんまりビンと来ないです。全然、他人みたいなもんです。実家で会う以外、お互いに連絡とらないですから。まあ希薄な兄妹関係ですね。電話番号も知らないですから。家族のことは、あまり考えたことないです。貧乏でしたし、何もできなかったですよ。
竹熊: 貧乏だったんですか?
庵野: 身障者の父親が、そんなに稼げるほど世間は甘くないですね。日本という国は、足が一本ない人間に対して、そんなにいいことはしてくれない。まあ、どっちかと言うと貧乏の方だと思う。親はほとんど朝から晚まで慟いてましたから。親に遊んでもらった記憶って、ほとんどない。祭りの日とか、年に数回ですよね。正月とか盆とか。
竹熊: じゃあ子供時代は、一人遊びをやっていた感じですか。
庵野: 友達もそれなりにはいましたけど。そんなに友達に苦労するとか、そういうのはなかった。まあ、どうなんでしょう。そんなに嫌われてた感じはなかったです。
最初に見た映像 [pp. 15-17]
竹熊: 最初に映画館で見た映画ってなんですか?
庵野 : ー番古い映画っていうのは、親に連れられて行ったんですけれと、ワンカットしか覚えてないんですよ。どういう映画だったかも忘れてしまって。夕ンクローリーが横転して爆発する映像だけ強烈に覚えている。
竹熊: タンクローリーが爆発。それは何歳ぐらいですか。
庵野: 幾つぐらいなんでしょうね。四つか。夜のシーソなんですよ。そのカットだけ覚えてる。まあ、要するに爆発なんですよね、最初に映像として覚えてるのは。
大泉: これはすごい原体験だなあ。
庵野: テレビで覚えてるのは「鉄人28号」。LDボックスが出た時に、秋葉原で買ったんですが、けっこう鮮明に覚えてました。細かいカットや台詞まで覚えてたんですね。けっこう外れていなかったのが、すごい。
竹熊: 配憶力が。
庵野: でも、覚えてるわりには鉄人への思い入れって、あまりないんですよ。「鉄腕アトム」もないですね。「ェイトマン」の方が、僕は濃いですね。あと「スーパージェッター」ですかね。「ウルトラQ」は、怖かったんで、外が明るい時間にゃった再放送まで見なかったっていうのがのるんですけどね。いや、本当に怖いのはダメです。「怪奇大作戦」はニ語の「人食い蛾」で見るのやめたんですよ。あれ以来、蛾が怖くてダメなんです。
怪獣とヒーロー [pp. 17-19]
大県: 怪映はどうです?僕らの世代だと、ウルトラマンごっこやったり。あと「ゴジラ」や「ガメラ」はテレビでも時々放映するじゃないですか。それでゴジラ派、ガメラ派が必ずできて。
庵野:「ガメラ」も見てたし、 "東宝チャンピオンまつり"も行ったんですけど、そんなに僕、「ゴジラ」の影響ってないんですよ。むしろテレビの巨大ヒーロlの方ですね。
竹熊:「仮面ライダー」は?
庵野:「仮面ライダー」は最初の八話までです。全話LD買っていても、見るのは最初の二枚だけとか。残りのやつは、封も開けてない(笑)。
竹熊: やっぱり、いま見るとちよっと。
庵野: かなりひどいですよね(笑)。ただ「ライダー」の一話と二話って、けっこう見直せるんですよ。何かあったら必ず見直すんです。なんか、マンガもアニメも”それなり "なんですよ。大半はやっぱ見ててつまんなかったし。どっちかと言うと、熱中したのは「ウルトラマン」とか、そっちの方ですね。あと「ITC」物とか。
大泉: ウルトラシリーズはどのあたりまで見てたんですか。
庵野: えーと、「ウルトラマンェース」から抜けはじめて、「ウルトラマンタロウ」が途中まで。あれは大人になって初めてあの良さが(笑)。
竹熊:「タロウ」、ださかったよね(笑)。
庵野:「ウルトラマンレォ」も大人になってからですね。「タロウ」と『レオ」の良さは、やっぱり年をとらないと。大人にならないと。
竹熊:「タロウ」のどこがいいんですか(笑)?
庵野: 世界観がいいです。要するにあれは、小さい子供の夢の世界なんです。それまでツリアスー辺倒だったウルトラツリーズの世界観を、あそこで子供向けのファンタジーな世界に戻そうとしたと思うんですよ。「なんでもあり」の世界ですよね。特撮もナイスです!
竹熊: ああ、そうか。だから子供だった僕にはダメだったんだな。子供って、いかにも子供然としたものより、アダルトな方に憧れるから。
大泉: 僕は「エース」の時ですね。これはダメだって感じですね。
庵野:「エース」は圧倒的にデザインがカッコ悪いんですよ。「ウルトラマン80」も、とにかくヒーロがカッコ悪い。あれで損をしましたね。「80」の特撮技術はすごいんですけど。「帰ってきたゥルトラマン」はグㅡですね。これは本編がいい。かなりのめり込んで見てました。
白黒テレビでマトを [pp. 19-20]
竹熊: それで問題のヤマトなんですけど。
庵野:「宇宙戦艦ャマト」は最初、白黒で見てたんです。テレビが二台あって、カラーテレビで妹が裏番の「アルブスの少女ハイジ」を見てて。
竹熊: 二台あって、良かったじゃないですか。
庵野: いや、結局うちが貧乏だったんで、カラー買買っても白黒を捨てないという(笑)。普通、新しいテレビ買えば、古いのは捨てちゃらじゃないですか。
竹熊: 邪魔だからね。
庵野: それを捨てないで。途中から親がカラーテレビを買い直したんで、古いカラーになりました。色がか薄くて(笑)。番組を知ったのは、最初に「冒険王」に載った松本零士のマンガを見て。
竹熊: ああ、アニメとタイアップでやってましたね。
庵野: ええ。メディアミックスで、松本零士がマンガ版を連載してて。第一話の最後が夕日に沈むャマトのあのコマで、すごくひかれた。だから「冒険王」読まなかったら、たぶん人生変わってましたね。
もう僕は勉強しない [pp. 20-22]
庵野: それで高校になると、小遣いがガンとあがったんですよね。
大泉: いくらもらってたんですか。
庵野: 五〇〇〇円なんです。
竹熊: それはでかいじゃないですか。僕は二ニ五〇〇円だったな。
大泉: 僕は三〇〇〇円だった。
庵野: それはですね。地方の一番有名なというか、いわゆる進学校があるんです。宇部高というところなんですけれども。そこに入ってると、地元じゃエリートと言われる。そういうところなんですよ。
そこに入ったら、親が小遣いを五〇〇〇円にすると。それで受けたんです。
竹熊: じゃあ親も、ちょっと無理して、みたいな。
庵野: ええ。相当無理してたと思います。そこからですね。マンガとか|小説とか買い始めるのは。やっと経済力がついて来たんですね。たまたまその時、苦手だった英語の出来が良かったんです。たぶんギリギリで入れたぐらいの気がするんですけど。それで高校の入学式の時に誓ったんですよ。もう僕は勉強なんかしないと。
大泉: 素晴らしい。
庵野: 中学までは、勉強も面白かったというか。でも高校に行ってまで、なんで勉強すんだろうと思って。まだ波動とか、確率論とか面白かった。でも数ⅡBになったら……裁積なんて、社会に出て何の役に立っのか。
大泉: まさしく。
庵野: 進学校だったので、授業もほとんど受験勉強なんですよ。そんなもん何が面白いんだろうって感じで。だから高校に入ったら、マージャンとかマンガや八ミリとか、そんな感じで。友達とずっとマージャンしてて。
竹熊: 酒は飲んだりしました?
庵野: 酒は飲んでました。タバコはやらなかった。タバコはいまでもやらないっスね。当時は高校から帰ったら、即マージャンという感じでしたね。特に試験中は(笑)。
伝説のヤマト特集 [pp. 22-26]
竹熊: それで七六年か七七年、僕らが高校一年か二年ぐらいで、アニメブームが起きるじゃないですか。
庵野: そうですね。
竹熊:『OUT』創刊二号でのヤ マ ト特 集 。 あれは鮮朋に党えてる。 まさか アニ メを特集する雑誌があるとは思わなか っ たから、 ぴ っ くりしましたね。
庵野: ええ、マッハ速攻で買いました。最初、「OUT」の創刊号を友達が見かけたたんです。次でヤマト特集をやるというのが予告で出てて。
竹熊: 僕も創刊号の次号予告で、「君は覚えているかあのやす熱い血潮を!」みたいなキャッチョピーが載ってて、あれっと思なんでヤマトを、いま頃こんな雑誌がやるんだと。放映が終わって何年たってるかって。...思えば、あれがすべての始まりだったわけですね之 (造い目)
庵野: ヤマトブームはそうですね。火付けは間違いなく「OUT 』でよう。落在的なファン層はあったんです。中二の時から僕はずっと「ヤマト」の布教活動をしてましたからね。やっぱり高校に行くと、数人りるんでずよね。 『ャ マ ト』 好きだ っ た奴が。 それで仲問みたいにな っ て。
竹熊: それで 『ヤマト』 がブームになって, 馴揚版ができて。
庵野: ああ、 見主した。
竹熊: 僕は新宿の束映パ レ スで上映したのを見たんでず。 最初の劇場公開版。 行ったら、 もう劇揚を二重、 三重に人が囲んでて、 すごぃ熱気でした。 あれがア ニ メに行列ができた最初。
犬慕: それは幾っの時でずか。
竹熊: だから高二ぐらい。 七七年かな。 ャマトブームが起こって半年後ぐらいに、 劇場版できたんでしたっけ。
庵野: あれは再編集のゃっが劇揚にかか っ てから、 プームになったんでナよ。 初めはファ ンクラブですね。 ヤマトのファンクラブっていうのがあちこちにできて、 そ~」を曹さんがう菫く利用したんでずよね。フ ァ ソクラプ、 僕も入っ てたんでずけど。 協力要詰の葉害が来たりしました。 葉害が五枚来て、 それで深夜放送でリク ェ ストしてくれっ て。『宇宙戦艦ャ々ト』 の 「賣っ赤なスカーフ」 をかけてくれってぃう。 それで碓か 一 位になって、 かかったんです。 僕は出さなかったけど。
竹熊: 当時はア ニ メの歌が、 ちゃんとした音楽扱いでラジォでかかるっていうのが、 前代未關だったわけですよね。
庵野: それまでア ニ メ ファンとぃうのはほとんどなかったと思うんです。『ヤマト』 が初めて (っスとしての) アニ メファ ンを作ったんだと思ぃますけどね。 要ずるに中学にもなって 『海のトリトン』 の話をしているとか`、『勇老ライディーン』 の話をしているよぅな女の子と、 あとは 『ャ マト』 の話をしてぃるよぅな男の子が、 学年揃えても 一 〇人ぐらぃもぃなかったのに、 それが初めて全国区になった。 僕の知らないところにも`、『ヤ マ ト』 を好きな人が、 こんなにいたんだと。 あれがぃまのォタクのハシリでずよね。 『ヤマト』 が好きとぃラだけで、 強烈な伺胞意誠っていうんですか。
竹熊: 連帯感が持てたと。
庵野: ええ。 それがダー ッと蝋えて。 もう万単位でずよね。 万単位でそぅいう人が増えるとぃうのが、ものずごい安心感にっながったと思うんでず。 それがァ ニ メファンというものを作ったと思うんです。 市民権を得たという錯覚の屯とだったんですね (笑)。
さらば「ヤマト」よ [pp. 26-28]
庵野: そこからスタートしたんだけど、 『ャマト』 は劇場版で 一 回冷めちゃい主したね。 こんなに人が周りにいると、 なんかもうぃぃやって。
竹熊: ああ、 同じだ (笑)。 僕も 『ヤマト』 の最初の劇場版を見て冷めて帰っ て来た記憶がぁるんですよ。 なんだテレビの再編集じゃないか` 手抜きじゃんこれはって (笑)。
大泉: 劇場版は普通に見てたなあ。
庵野: 『さらば宇宙戦艦ヤマト』 を見た時には、 周りが皆泣ぃてるのを見て、 笑ってたんですょ、 僕ら。
竹熊: スーッと引いてく自分っ てぃうの?
庵野: ええ。 僕らのグループだけ笑っ てたんです、 ラストで。
竹熊: すごくすれっからしのマ ニ アになっちゃ ったわけでずね、 その時点で。
庵野: まあそうです。 現に、 あのラストは、 僕は好きじゃなぃんでずけどね。
竹熊: 『さらば~』 は最後に主人公が特攻して、 ジュリーの歌が流れたっていぅのだげ覚えてる。 ヒロインの森雪が死んで、 森雪の亡骸と 一 緒に古代進がヤ マトを操縦して、それで敵めがげて特攻するんだよね。
庵野: あのあたりはもう、 ゃらせのご都合にしか兄えなか っ た。
大泉: 俺も 『ヤ マト』 の記憶ははっきりしてないでずけど、 拡放波郵砲っていうのは、 何に出て来るんですか。
庵野: あれはアンドロ メダという新造戦艦にっぃてるゃっです。 『さらば~』 に登場ずる兵器でず。それでァンドロ メダがやられて、 ヤマトが出て行って、 岐後、 特攻って話でずか。
庵野: そうです。 いゃ、 それで敵が巨大な都市型宇宙船じゃなぃですか。その中から巨大宇宙船が出て来るんです。 もうラッキョの皮むき。 最初は彗星だったのが。
竹熊: ああ、 思ぃ出した。 白色彗星。
庵野: 彗星から都市型宇宙船が出て来て、 それが壊れたら中から巨大戦艦が出て来て、 みせしめに月を壊すんです。 それで月を壊したあと、 ゾーダ大帝、 何にもしないで帰っちゃうんでずよ。
竹熊: 月を壊して, 満足して (笑)。
庵野: それをわざわざヤマトが追って行ってゃっ っけるんですよね。
竹熊: じゃあストーリーとしては、 目茶苦茶ですね。
庵野: 破綻しているんでず。 全然ダメなんでず。 それで古代が死ぬ意床もないんです。 単に悲壮感を出して、泣かせるためのものなんです。 そんなんに誰がは主るものか っ ていう (笑)。
八ミリ映画に夢中 [pp. 28-32]
大泉:『ャマト』 でアニ メブームになって、 ゥチのかみさんも高校でアニ メ同好会作っちゃうんでずけど。 庵野さんは作りました?
庵野: いゃ, アニ メ同好会なんて, そんなのないんてナよ。山口県というのが、 頭の固い土地で。マン研もなぃんですよ。 ぃ菫は知らないでずげれど、 当時はどこにもなかったです。 まあ美術部の中に、マ ソガの好きな奴とかが若干いるとぃうだけで。それで美術部の部長になっ てですね。 部長になったからには、 部雅は全部俺のもんだって。 で、 アニ メーシ ョ ンを勝手に作り姶めたんです。
大泉: もぅ作ったんですか。
庵野: 高二の時に、いままで貯めた金をはたいて八ミリ買っ て。 高校の部費が五万円しかなかったんでずけど、 それでセ ルとかセ ル絵の共とか買い集めて, 初めて描ぃたのが、 ャ マトの描き送りの絵で。 奥から手前に航行して来るゃっでしたね。
竹熊: ゃっぱり股初は 『ヤマト』?
庵野: 『ヤマト』 です。 一 番披初に描いたのはそれなんでず。 あと巨大ロボットが爆発ずるシーソだけとか (笑)。 ショート ・ ショートみたいなフィ ルムを 一 気に作って。 それは大失敗でした。皆に謝るしかなかったっスね。テレビァニ メを見たままゃろうって。 イメージBGみたいな背景も描いて、 セルに色塗っ て。 後輩ゃ友達にセ ル塗らせてですね。 自分らでヵセ ットに台詞入れて。 まるでっまんなかったですね。 それでも初めて動いたフィ ルムは感動でしたけど。 あの感勤があったからまだアニメ作ってんでしょうね。
竹熊: アニメ以外の八ミリ映画は?
庵野: ええ。 ヒー ロー物みたいなのを。 当時の八ミリ仲問で、 生徒会長ゃっ てる中村っていうのがいたんですけど、 それのゴロあわせで 『ナヵムライダー』 というのを。
竹熊: ょくあるパターン (笑)。
庵野: でも、 よくできてたんですよね。 当時にすると、 ゃたらと凝っ てまず。
大泉: 発表の揚は文化祭? 客の反応はどうでした?
庵野: ゥヶましたね。 でも最初にできたフィ ルムを見た時の方が嬉しかったでずね。 そっちの方が大きいですね。 客ゥヶは、 まあ二次的なものでした。
大泉: ああ、 動いたっていう。
庵野: ゃってることは、いまとそんなに変わらないですね。 他に粘土やパぺ ットの真似事をちょこちょこっとやって、その後姶めたのが紙のアニ メなんでず。
竹熊: 切り紙アニ メ?
庵野: いゃ、 切り紙じゃなくて、 紙にピグマで絵を描いて、 セルを使わなぃ。 上京した時に見た自主ア ニ メに影響受けたんです。『PAF』 (プライぺ ート・ァニメ ・ フェステ ィバ ル) っ ていうのがありましてね。 そこ に"グループえびせん"という自主製作グループが参加してたんです。 そのメンバ ーの原さんがゃった 『セメダインボソドG17号』 という作品がすごく面白かったんですよ。あの時、目からうろこが落ちたんです。
竹熊: ああ、こうぃうアニ メもあると。
庵野: ええ。 セルアニ メじゃなくて、 紙にサイソべ ンで描いて、 それを撮影して。 ちょこっとだけ色がっぃてる。ヮソポイントで。
竹熊: 『エヴァ』の二六話に出て来たような、あれですね。線画のアニメ。
庵野: あれを見て、セルアニメじゃなくても、アニメーションって面白いんだって。それからは紙アニメばっかりですね。手軽ですから。一〇〇円の計算用紙でいいんですよ。ピグマで下描きもなしに、描き送りなんですけれど。これは超面白かったですね。
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1. ファンの間で "監督によるストーリーの扠乗か?" "これは目己啓発セミナーではないか?" と物議をかもしに 『新世紀エヴァンゲリオン』最終二話のこと。
二四話までのSFドラマは完全に放棄され、学夜の体育館のような外界から隔離された場所で、 他人恐怖症の主人公・シンジが、也のキャラクターだちから質問攻めにされている。 シンジはむき出しの心惰を吐露し, 目分と自分を取りまく世界との聞係, その将釈の仕方による「自分」の成り立ちを整理する。そして最後に世界をボヅティブにとらえ、そのせ界を生きる自分を自由に演じることで、自己を肯定する結論に至る。シンジは周囲の祝福を受け、 再生すろ。しかし主人公の苦悩の解消を箱庭痺法めいた観念劇ではなく、本来の物語中で問うていくことは放乗されたままであり、 ファンの非難もこうした監督の態度に集中している。 ビデオ版・馴場版での "補完" が期待されている。
Here's the second chapter, introduction pp. 33-35
竹熊: 大阪芸大は現役合格ですか。
庵野: いや、浪人です。一回目は、国立の教育学部を受けたんですけれど。共通一次の英語が四〇点で。全然ダメでした。それで一年遊んで、二年目はさすがにもう、どこでもいいから親に入れと言われて。それで案内を見たら、大阪芸大というところが当時は学科試験なしだったんですね。実技のみで。
大泉: (笑)おかげで大阪芸大、すごい人材生み出してますからね。
庵野: 映像計画学科を受けたんですが、試験が絵コンテだったんです。当時、宮崎(駿)さんの絵コンテを、友達が買ったりして見てたんです。『未来少年コナン』の絵コンテを、日アニ(日本アニメーション)が売ってたんです。通信販売で。それを見て。
竹熊: 勉強して?
庵野: いや勉強してというか。こんな感じでやればいいのかと。あとで担当教授に聞いた話だと、僕のはかなり優秀だったそうです。ここまで描き込んだ絵コンテというのは、いままでなかったと。専門用語まで書いてましたから。背景指示とかフォローとか。
大泉: そうすると大阪芸大で、一躍エリートになるわけですね(笑)。
庵野: まあ大阪芸大に入って良かったっていうのは、赤井(孝美)とか山賀(博之)がいたってことですね。
竹熊: この時期の大阪芸大というのは、そういう意味ですごいですよね。
庵野: うーん、まあ。でもそうでもない人も多いですよ。僕の感覚だと当時の大阪芸大は、四年制の専門学校ですから。誰も勉強する気がない。映画をやりたいから来てるわけでもないんですよ。入りやすいから来てると。ファースト・ピクチャーズ・ショウと言って、二回生になるとフィルムを三分間作って、全員参加で発表する。出せば単位になるんです。とりあえず三分のフィルムを出さなきゃいけないという時に、その大半はゴミのようなフィルムなんです。なんでこの人達、ここにいるんだろうなって。ずーっとフィルム流しっぱなしにして、音楽入れてるだけっていう。でも、その中で、やっぱり何本かはいいのがあるんですよね。一回生の時は赤井と合作で紙アニメを出しました。山賀に撮影手伝ってもらって。それが大学で作った最初のアニメですね。
[ 山賀博之との出会い] [pp. 36-38]
庵野: 僕は山賀と同じ寮だったんです。それで大家さんのところに挨拶に行った時に山賀がいて、初めて話をしたんです。
竹熊: 初対面の印象は?
庵野: なんかおかしい奴。
竹熊: 向こうもそう思ったでしょう。
庵野: らしいですね(笑)。それでなんか話ないかなと思った時に、僕が「『機動戦士ガンダム』って見てました?」って話をしたら、向こうが「ガンダム、何それ?」って。新潟(山賀氏の出身地)じゃやってなかったし、そもそもアニメって何も見てなかったんスね。
大泉: 山賀さんとは、よく行ったり来たりとかしてたんですか、部屋同士で。
庵野: うん、そうですね。
大泉: 僕が大学の頃は、哲学の勉強やってるか、マージャンやってるかって。やっぱり寮みたいなところだったんですけれど、マージャンは、その頃は切れてたんですか。
庵野: きれいさっぱりです。マージャンやる暇はなかったですね。と言うか、マージャンやる友達がいなかったですね。フィルム製作ばかりで。
竹熊: やっぱり山賀さん、赤井さんの影響というのもあるわけでしょう。
庵野: 大きいですね。
竹熊: お互いに一目置きあうみたいな関係?
庵野: どうなんでしょうね。僕が一番バカだと思いますけど。マジに。
竹熊: 山賀さんっていうのは、映画青年というイメージがあるんだけど。
庵野: いや、全然。彼、あんまり映画見ないですよ。有名になるための方法論が映画監督だったということで。だから映画監督になるにはどうしたらいいんだろうというので、淀川長治のエッセイを読んだらしいんですよ。そこに「同じ映画を一〇回見れば、誰でも映画監督になれる」って書いてあったんで、それで『がんばれベアーズ特訓中』を一〇回見て、これで映画監督になれるって。
大泉: (爆笑)
竹熊: ただものじゃないね。よりにもよって『ベアーズ』……。
庵野: 『がんばれベアーズ』ならまだわかるんですけど、『特訓中』ですから。つまんないと言ってましたね。
竹熊: そのつまんなかったやつを一〇回も。山賀さん、それでもう映画はわかったと。
庵野: 映画監督にこれでもうなれると。
大泉: 実際なったからすごいね(笑)。
ガンダム放映開始! [pp. 38-42]
大泉: 『ガンダム』のテレビ放送って、何年ですか。
竹熊: 七九年。
大泉: それで大学に入ったのが。
庵野: 八〇年。
大泉: じゃあ、浪人中に見てたんですか。
庵野: ええ。かなり本気で見ました。それまでもロボット物はけっこう見てたんですけど、やっぱり、すごくバカバカしいじゃないですか。
竹熊: まあ、ミもフタもないことを言えば(笑)。
庵野: 『マジンガーZ』とか、子供心になんかすごく頭が悪いと思ってたんですね。だって、どう考えてもアシュラ男爵の方が勝てるわけじゃないですか。なんで勝てないんだろう。頭の悪いアニメばかりだったんですね。ところが『ガンダム』の予告を見た瞬間、「これは違う!」って。
竹熊 :『ヤマト』以来の、なんかクルものがあったと。
庵野: 起き上がって、目が光るっていう有名なカットなんですけれど。その予告を見た瞬間ですね、「新しい!」って感じですね。それで一話見たら、しびれてしまいまして。もうあとはビデオ録りですね。
竹熊: もうビデオは持ってたんですか?
庵野: 持ってないですよ。だから近所の電器屋に、ビデオテープ買うから、ビデオデッキ貸してくれって。
竹熊: ああ、その手で? レンタルビデオデッキ(笑)。
庵野: 無理やりなんですけど。当時、ビデオ持ってる友達が近所に誰もいなかったんですよ。高くて。
竹熊: メチャ高かった。六〇分テープ一本が何千円でしょう。
庵野: そうなんです。まあそのテープを買うから、とにかく録らせて、店頭で見させてくれっていう。もう電器屋の迷惑かえりみず。当時、新聞配達やってたんで、リアルタイムで見れなかったんです。最初のうちは、それでもしようがないんで配達さぼったんです。そのうち近所の人から、「金曜日になると、夕刊がいつも七時ぐらいになるね」「いや、なんか金曜は荷物多くて大変なんですよ」とウソついて(笑)。配達途中で抜けて、家に戻って見てましたね、ガンダムだけは。でも、さすがに辛いんで。
竹熊: それでビデオを。
庵野: 電器屋に五時三〇分前に必ず寄って、それでガシャーンと自分でスイッチを入れてから配達にまた戻る。
竹熊: ああ、電器屋で撮ったと。それはすごいな(笑)。
庵野: 配達終えたあと、電器屋に行って、その場で見るってやつですね。
竹熊: 『ガンダム』が決めちゃったわけですね。いまの庵野さんの道を。
庵野: まあ、『ヤマト』『ガンダム』ですね。ただ『ヤマト』の熱気というのは、途中で冷めたじゃないですか。他のアニメも見てたんですけど、そこそこでしかないんですよ。本気になりたくてもなかなかなれない。それで、なんかアニメもつまんなくなったなあ、とか思ってた矢先に『ガンダム』がガーンと。ロボット物がここまで……ついにこれが出たんだって。
竹熊: わかる。耐えがたきを耐えて、やっと報われたと(笑)。
庵野: ええ。すべてにおいて、リアルタイムで見た以上、ファースト・ガンダムってエポックだったんです。
大泉: 当時、あれだけ作り込んだロボットアニメがあったっていうのは、やっぱり驚きますね。
庵野: 『ガンダム』からなんですよね。ロボットに人が乗っているというのを意識させるようになったのは。それまでのロボット物って、乗ったら、もうあとはロボットですものね。ロボットが必殺技を叫ぶとかだったんですけれど、ガンダムはロボットの絵の時は、めったにしゃべらないんです。ロボットの画面のところに、わざわざ人の顔だけ画面分割で出て、その中でしゃべる。あれも新しかったですね。すべてにおいて『ガンダム』はロボット物のエポックです。グーでしたね。
『ウルトラマン』事始め [pp. 42-45]
庵野: 僕の通ってた大学は、フィルムみたいなのを作ったら、単位をくれるというところだったんですね。
大泉: まるで庵野さんのためにあるような大学(笑)。
庵野: それで一回生の時の映像実習で、僕らの班はオムニバスでCM集を作ったんです。誰かを監督に立てて、一本作るだけの意見がまとまらなかったので、各人バラバラにCMを作ることになったんですよ。その中の一本が、僕のタイヤのCM28(『じょうぶなタイヤ』)で、山賀がワインのCMを作ったんですね。でもCMだけだとつまらないので、ちょっと番組を中に入れようと僕が言い出して。
大泉: CMを見せることが本来で、そのオマケとして番組を作ると。
庵野: ええCMの方が本編なんです。僕が作ったオマケの番組というのが、『ウルトラマン』なんですよ。
竹熊: はあ、すると庵野さんが後に監督した名作八ミリ『帰ってきたウルトラマン』の原型なわけですね。
庵野: ええ、要するに、カラータイマーだけ作ってですね。素顔丸出しで、衣裳がウインドブレーカーで。それで同じ寮の友達に、芸大のジャージ姿でイダーゲ星人というのをやらせてですね。まあ他愛もないものなんですけど。ウラの空地で撮りました。
竹熊: 『ウルトラファイト』(笑)。
庵野: それで二回生になった時に、ファースト・ピクチャーズ・ショウで、これまた時間がなくて、どうしようって時に、山賀が監督で『ウルトラマンDX』を作ったんです。今度は前よりはちょっと豪勢に。なにがデラックスかというと、まず赤井が怪獣の頭だけ作って、着ぐるみがある。あと前作でビルとかなかったんで、だから今回は牛乳のパックを積み立ててビルにして、そこにぶつかって壊れるのを、七二コマで撮る。スローモーションで、牛乳パックが壊れるところを。ああいうのって、結局音なんですよ。音をテレビから撮ったんです。『ウルトラマン』の本当のビルが壊れる音、ガラガラガラッと入ってたら、それなりに見れるんです。それでまた同じ寮にいる奴が、「じゃあ俺がウルトラマンの最終回を作るか」って(笑)。
竹熊: シリーズ物になっちゃったと(笑)。
庵野: そうなんです。まあそれでウルトラマンが故郷に帰るという話だけ最後に入れて。だからダイコンフイルムでやった時は、〝帰ってきた〟んですよ。
竹熊: ああ、それで『帰ってきたウルトラマン』。その前史があるからですか。やっと飲み込めました(笑)。
庵野: あれはダイコンフィルムの宣伝用の作品として、なんか八ミリを作りたいというアイデアがあった時に、僕の方から企画を出したんです。『ウルトラマン』やりますかと。
ダイコンフィルムの誕生 [pp. 45-48]
竹熊: ダイコンフィルムには、どういういきさつで参加することになったんですか?
庵野: 高校時代の友達が、当時、京都に住んでて、近所にソラリスという喫茶店があったんですけれど、SFファンが常連になってる喫茶店が。そこで彼が武田康廣さんや岡田斗司夫さんと知り合ったんですよ。彼の紹介で京都まで行って、ソラリスでその二人と。面白い人達がいるんで、会ってくれといわれて。
大泉: 八一年に、第二〇回36日本SF大会『DAICONⅢ』ですよね。
庵野: ええ。SF大会やるので、それのオープニングでアニメーションを上映したいと。
竹熊: そこから岡田さんや武田さんと関わり始めたと。その頃はもう、二人はSF大会をやっていたわけですか。
庵野: いえ、SFショウというのをそれ以前にやっていましたね。
竹熊: なんか、オタク漫才みたいなのをやってたんでしょう。
庵野: それまでは各地のSF大会に出てくる関西芸人って、二人とも有名だったらしいんですけれど。
竹熊: なんか、名物コンビだったらしいんだよね、岡田さんと武田さん。『スター・ウォーズ』を口真似で全部やるとかさ。それは武田さんでしたっけ。
庵野: どうだったかな。ゴジラの芸は面白かったです。
大泉: なんですか、ゴジラの芸って。
庵野: いや、高圧鉄塔のところのゴジラの真似とか。
大泉: コアですね(笑)。それで、その岡田さんや武田さんがプロデュースする形で、八一年の第三回大阪SF大会で上映した37『DAICONⅢ』オープニング・フィルムを製作するわけですね。
庵野: そこからダイコンフイルムが始まったんです。
大泉: こないだ竹熊さんのところで見たけど、もう全カットにオタクの夢がつまっているという(笑)。
庵野: 山賀が背景を描いて、僕がメカとエフェクトやって、赤井がキャラクターと怪獣を担当したやつですね。『Ⅲ』の時は、主なパートは事実上ほとんど三人でやってたんで。
竹熊: 山賀さんと庵野さんと赤井さん。
庵野: それで次の『Ⅳ』はもっと規模を大きくしたいというので、山賀が監督という形で立って、自主アニメなんですけれど、プロのシステムというのを導入したわけなんです。そのために山賀が東京に行って『超時空要塞マクロス』を手伝いながら、プロの仕事を見てきたんですけれどもね。
竹熊: もう『マクロス』が?
庵野: 始まってました。
大泉: それは大学何年ぐらいの時?
庵野: 大学何年でしたっけ。いや二年ぐらいまでしか行ってないです。三年からもう学校行ってなくて。大学二年の時が『DAICONⅢ』です。
大泉: 卒業してないんですか。
庵野: してないです。放校処分です。
大泉: 優秀な学生だったから(笑)。
庵野: 三年目には大学、行かなかったですね。『帰ってきたウルトラマン』とか『愛國戦隊大日本』とかが始まっちゃって。
ウルトラマンになった理由 [pp. 48-53]
大泉: 『帰ってきたウルトラマン』の話って、庵野さんにとっては、ある種原点という感じですか。
庵野: あれは原点です。
大泉: 俺、もうゲラゲラ笑っちゃったんですけど。一番初めにウルトラマンになった時の気持ちというのは、どういう気持ちだったんですか。
庵野: 気持ち良かったですよ。昔からの夢でしたから。
大泉: ポーズとかは、昔のシリーズ見直して、研究してとか。
庵野: いや、もう身についてたから。『ウルトラマン80』までは全部、真似できます。
大泉: 顔もなんとなく似てるような。
庵野: 僕一八〇あるんで、初代ウルトラマンの役者さんと同じ背の高さなんですよ。やっぱりイメージというのは大事です。腹なんて出てると、イメージがなんともなんないから。
竹熊: 『帰ってきたウルトラマン』は製作中、かなり煮詰まったとか。
庵野: 凝りすぎたんですね。圧倒的に。ダイコンフィルム製作で『愛國戦隊大日本』『快傑のうてんき』と三本立てで進行してたんですけど、それをまとめてTOKON8に出さなくてはいけなかったんで。
竹熊: 東京のSF大会。
庵野: それに出すというのが当初の目的だったので。もうこのままだと間に合わないというので、グループとしては『ウルトラマン』を凍結して、『大日本』を完成させるために、一回、中断したんです。MAT本部の撮影後に。とにかく本部の司令室のセットを組んじゃったんで、そこは全部撮っておいて、一回中断。それでTOKONが終わってから、九月ぐらいに……。
竹熊: 撮影再開?
庵野: ええ。やっぱりその後、僕は壊れてたんですね。中断して緊張感が切れて。それで九月ぐらいに、やっぱりこのままじゃあイカンと。
竹熊: 完成させねばということで。
庵野: ええ。それで撮影を再開したんですが、もう泥沼だったですね。最初、阪大の友達のところで、ほとんど居候みたいな形で住み込んで、ミニチュアを作りながら撮っていったんですが、全然ラチがあかない。それで今度は米子にある赤井の実家の方に詰めて、そこでオープンのロケをやると。それでも撮りきれずに帰って来て、大阪のじゆう十そう三にスタッフのベースになってたマンションがあるんですけれど、そこで残りを全部撮るという。その頃はもう、グチャグチャでした。
竹熊: 庵野さんの行き詰まり癖というか(笑)、完全主義が出ちゃったわけですね。
庵野: あの時は、とにかく人間関係の問題がでかいんですけど。皆、学生ですからね。報酬があるわけじゃないし、こっちは学校を休んでやってくれと言っているわけですね。周りの人間巻き込んで、留年までさせてるんです。
大泉:『ウルトラマン』で留年(笑)。
竹熊: そこで責任というものが、庵野さんの肩に……。
庵野: それに応えるだけのものを作んなきゃいけない。とにかく疲れきってました。一日二四時間、それしかやらない暮らしになりましたから。
挫折、そして決別 [pp. 53-58]
庵野: そうなった時に、正月だけ休みになったんです。正月は実家に帰って、その間にフィルムを編集する予定だったんですけれど、実家にスプライサーが無かったんですよ。
竹熊: ああ、編集する装置が。
庵野: ええ。二トラックのものがなくて、一トラの編集機しかなかったんです。買おうにも金がなくて、なおかつ正月休みでテープも売ってなかったんです。だから作業ができなかったのをきっかけに、五日間、もう友達と遊んだんです。これじゃできないやと思って。スタッフに連絡もせずに、なまけちゃったんです。その時に、連絡入れれば良かったんですけれど……。
竹熊: 責任問題が発生しちゃった。
庵野: ええ。結局、やらずに大阪に戻って、武田さんや岡田さんに怒られました。いま考えれば、そこで怒って、僕をやる気にさせるという方法論だったとも思うんですけれど、僕はそこでめげちゃったんですよ。もういいやって。
竹熊: その時の話を岡田さんから聞いたんですけど、岡田さんが言うには、庵野さんがなまけて、正月休みに編集してこなかったというので、この編集は別の奴にやらせると。それで、赤井さんにバトンタッチですか?
庵野: ええ。
竹熊: だから自分達で作品を仕上げるから、庵野はもういいみたいなことを言ったら、庵野さんがそれから七時間、喫茶店のその席で、ずっと悩んでたっていう話を聞いたんだけど(笑)。
庵野: 七時間もいたかな。
竹熊: 七時間だかなんだか、とにかく延々いて、喫茶店から連絡があって、まだあの人いますけど……みたいな。それで岡田さんが喫茶店に戻ってみたら、庵野さんが別れた時と同じポーズで悩んでたっていう話を聞いたんですが。
大泉: それは本当なんですか。
庵野: ショックでしたからね。……要するに、まさか(自分の作品が)取り上げられるとは思わなかったんです。それでああ、(仲間にとって自分の存在は)どうでも良かったんだって。結局、連絡しなかったというところが問題だったんですね。イカンですよね。
竹熊: そこで岡田さんや武田さんに電話すればいいじゃありませんか。
庵野: 僕、貧乏くさいんで、長距離電話すると、金が実家にかかると思うんですよ。まあ、大阪に帰ってから話せばいいやって。要するに、電話代がもったいないと。サボる理由が欲しかったんでしょうね。連絡しなかったのは、確かに悪いと思ったんですけれど。一番ショックだったのは、まあ一年近くそれしかやっていなかった自分の人生みたいなものが簡単に取り上げられてしまった、ということですね。自分はその程度の存在だったのかと思い知りました。もともと責任感薄いんですよ。なまけ者だし。つくづく監督には向かない、と思いました。でもその時は自己嫌悪よりは、簡単に捨てられたショックの方が大きくて、そんなグループはもう嫌だと、東京に『マクロス』手伝いに行ったんです。その後赤井が完成させてくれたフィルムを上映会で見た時は、号泣しましたね。監督降ろされた時の慰めと励まし、そしてフィルムを完成させてくれたこと等、言葉にならないですね。赤井には感謝程度じゃすまないです。結果、またグループにも戻ったし。
竹熊: いきなりでなんですが、庵野さん、やたらとファンの批評に対して攻撃的ですよね。
庵野: ファンの批評ですか?まあ批評以前というか、ただの悪口というのが大半なんですけど。作品のことも書いてる本人自身のこともわからずに書いてるみたいですね。表層的な方法論の部分でしか語れないわけですよ。それはいいんですけど、自覚が伴っていない。世間と自分が客観できてないんですね。そういう人ほど積極的に外界との接触を望んでいる。自分が絶対に傷つかない範囲でですが。だから声を大にして意見を言う。
竹熊: うう。今回は最初から飛ばしてますね、庵野さん(笑).
庵野:「エヴァ」は注目されてますからね。効率がいいんですよ。悪口言いやすいし。もちろん中にはありがたいとか励ましになるとか嬉しくなるとか、素直に感謝したり喜んだり、意義というか、やってよかった、と感じるものも多々あります。ただ、物を作っている人の言葉の中にはやはりシンバシーを感じるものが多いですね。
竹熊: 作品の作り手の方が、まだ理解してくれる度合いが高いと?
庵野: そうですね。血を流して物づくりに没頭しているような人の方が、 (「エヴァ」との)シンクロ率は高いと思いますね。日々, のんべんだらりと過ごしている人は、もう全然... 。いわゆるオタクって自分の世界を大事にするんですよ。それが自分の世界だから。そういう人に世間を見ろと言っても、難しいんですよね。世間に染まったらそれはオタクではなくなってしまうし。だから自分の世界に固着してしまう。インテリと同じで自分の知っている世界、自分の理解可能な範囲でまとめてしまうんですね。他を知る必要もないし、認めることもない。関係ないんですよ。だから例えば(「エヴァ」の)二五話〜二六話[1]をですね。確か「トーキングへッド」だったかな、押井(守)さんの作品のマネだと括ったりしてしまうんですね。自分の知っている世界で一番近いものが押井さんのそれしかなかったりするわけなんですね。あくまで表層的方法論にしか過ぎない部分で。そうとしか認知できないんですね。もら、そうせざるを得ない。僕はそれ、見てないのに(笑)。ただ、(そういう当てはめをするのは)僕もそうなんで(笑)。(他人の)アメ見てたりすると、反射的に「あ、あれだ」と思ったりしますね。
竹熊: そういらことを言わないで、それは庵野さん、黙ってればいいじやないですか。作品に対して何を言おらがファンの勝手でしょう。
庵野 : 確かに黙ってりゃいいんですけど。相手にし過ぎというか、サービス過剰だとも言われるんですが。要はバカなんですよ、自分が。(ファンの言動を見ていると)どうも自分を見てるみたいな感じもあって、言ってしまうんですね。しかしまあ、最近は「人を見て法を説け」という言葉が身にしみてます。何を言っても悪意としか解釈できない人もいるみたいだし。ただ嫌われてるだけだとも思うんですが(笑)。まあ悪意も善意も自分との関係という点から見れば等位ですから。悪ロ言われてるだけマシって部分もあります。ただ、そういう意味でも黙っているよりは言った方がいいか、という気持ちもありますね。言われたことで初めて手にする情報ってのもあるわけじゃないですか。どう受「け取られるかはその人によりけりですけど。ただ、そう言うことで自分を客観視するチャンスにはなると思うんですよ。自分を相対的に知って損はないと思うし。周辺の現実を認めて現実原則の中でオタクとしての自分の在り方を考える場のもいいと思います。それは余容につながりますからね。....こらいうこと言らと偉そらに聞こえるんですけど。まあ、さすがにもう言ってもせんない気もするし。ああ、でも、野火ノビタさんの批評はグーでしたね。読んで、ぜひこちらからお会いしたいと思いました。いちおら、コネで電話番号を間接的に聞いたんですけど。
竹熊: まだ会ってないんですか。
庵野 : この間、お会いしたんですか。方友達に、コミケで野火さんが出したエヴァの同人誌を買ってきてもらったんです。読んで、ぜひお会いしたいので連絡したら、ずっと旅行中で会えなくて。結局 「別冊JUNE」の対談が最初になっちゃいました。
竹熊:(野火氏の論文を読んで)ああ、庵野さんのこと「分裂病」って書いてる(笑)。なるほど。実はこないだ大泉さんともそういう話はちょっと出たんです。やっばり庵野さんは分裂気質だろうと。大泉さんには、そうい女達が多無いんですよ。
環集部(総田): 呼ぶよね。あの人は。
竹熊: 呼ぶ。ただ僕は最近知ったんだけど、大泉さん自身にも、けっこ呼ぶ。うエキセントリックなところがあるんですよ。
庵野: 分裂病がわかるのは、分裂病の人だけですから(笑)。
竹熊: 大泉さんの守護神はガメラなんだそうです。それで「ガメラ2」を見て三回泣いたという(笑)。
庵野: いい年してそれはヤバイですね(笑)。
竹熊: それで今度、破防法がオウムに適用されるかもしれないじゃないですか。そしたら捕まるんですよ、大泉さん(笑)。ああいう文筆活動(オウムへの "入会"ルボ)やってるとね。それでもう妻子と水杯かわしてるんですよ。
庵野: よく妻子ができましたね。
竹熊: それで妻が元アニメ同好会という(笑)。(こりで大泉氏登場)
大泉: どうも、遅くなりまして。何、話してたんですか?
竹熊: いや、別に(笑)。じゃ、始めましょうか。
故郷では優等生 [pp. 12-13]
大泉: 今回は、庵野さんの個人史をお聞きしたいと思うんです。とりあえず、子供時代の話あたりから。どんな子供だったかとか。
庵野: どんな子供なんでしょうね。
竹熊: ご出身は山口県ですね。
庵野: ええ。山口県宇部市です。もう、ド田舎です。保守的なところです。僕は、学級委員をずっとやってましたね。まあ、まじめタイプに見えたんでしょうね。根が臆病者ですから。
大泉: 毎回、立候補したんですか?
庵野: ああいうのは立候補はないんですよ。早い話、ゃらされてるという。ウチの親も喜んでたし。田舎の発想ですよね。ただ、嫌じゃなかった。
大泉: いじめとか、いじめられたとかいうことはありました?
庵野: うーん , あんまりないやす。中一の時に、体育会の先輩にちょっと、ああ、これがいじめなんだろうなというのはありましたけれど。でも、その人だけなんです。それ以外には、そういう経験はないです。ケシカもほとんどない。殴り合いのヶンカって、数回ぐらいしか。まあ昔からこういう顔だったんで、「外人、外人」って呼ばれたりとか。その程度なんです。本当にいじめられてるクラスメイトは別にいましたからね。中学の時までは、どっちかと言うと、優等生の方です。中学になると関実力テストで順番が出るじゃないですか。あれが学年の二〇番ぐらい。ちょっと調子がいい時は、一〇番台ぐらいで。
大泉: 最大出力で一ヶタになるという感じですね(笑)。
庵野: 一度、勉強しなかったんですよ。勉強しなかった時、八六番まで落ちてまして。それで先生に「なんで勉強しないんだ」って言われて、「面白くないんですけど」って答えたことがある(笑)。
もう、家族のこと [pp. 14-15]
大泉: 実家は海とか近いんですか。
庵野: 遠くはないです。でも海水浴なんか、行かないですね。
大泉: そうなんですか。いや「エヴァ」を見ると、夏と海のイメージが強いので。
庵野: なんでですかね。家族とはめったに海へ行かないんです。母親の皮膚が弱かったのと、親父に足がないんで。人前で裸になるからつらかったんでしょうね。何度か潮干狩りに行った記憶しかないっス。
竹熊: 家の教育方針はどうだったんですか。過保護か、放任かみたいな。
庵野: 中途半端ですね。あんまりどっちとも言えない。
大泉: ご兄弟とかは。
庵野: 妹が一人。でも年が七っも離れてるんで、あんまりビンと来ないです。全然、他人みたいなもんです。実家で会う以外、お互いに連絡とらないですから。まあ希薄な兄妹関係ですね。電話番号も知らないですから。家族のことは、あまり考えたことないです。貧乏でしたし、何もできなかったですよ。
竹熊: 貧乏だったんですか?
庵野: 身障者の父親が、そんなに稼げるほど世間は甘くないですね。日本という国は、足が一本ない人間に対して、そんなにいいことはしてくれない。まあ、どっちかと言うと貧乏の方だと思う。親はほとんど朝から晚まで慟いてましたから。親に遊んでもらった記憶って、ほとんどない。祭りの日とか、年に数回ですよね。正月とか盆とか。
竹熊: じゃあ子供時代は、一人遊びをやっていた感じですか。
庵野: 友達もそれなりにはいましたけど。そんなに友達に苦労するとか、そういうのはなかった。まあ、どうなんでしょう。そんなに嫌われてた感じはなかったです。
最初に見た映像 [pp. 15-17]
竹熊: 最初に映画館で見た映画ってなんですか?
庵野 : ー番古い映画っていうのは、親に連れられて行ったんですけれと、ワンカットしか覚えてないんですよ。どういう映画だったかも忘れてしまって。夕ンクローリーが横転して爆発する映像だけ強烈に覚えている。
竹熊: タンクローリーが爆発。それは何歳ぐらいですか。
庵野: 幾つぐらいなんでしょうね。四つか。夜のシーソなんですよ。そのカットだけ覚えてる。まあ、要するに爆発なんですよね、最初に映像として覚えてるのは。
大泉: これはすごい原体験だなあ。
庵野: テレビで覚えてるのは「鉄人28号」。LDボックスが出た時に、秋葉原で買ったんですが、けっこう鮮明に覚えてました。細かいカットや台詞まで覚えてたんですね。けっこう外れていなかったのが、すごい。
竹熊: 配憶力が。
庵野: でも、覚えてるわりには鉄人への思い入れって、あまりないんですよ。「鉄腕アトム」もないですね。「ェイトマン」の方が、僕は濃いですね。あと「スーパージェッター」ですかね。「ウルトラQ」は、怖かったんで、外が明るい時間にゃった再放送まで見なかったっていうのがのるんですけどね。いや、本当に怖いのはダメです。「怪奇大作戦」はニ語の「人食い蛾」で見るのやめたんですよ。あれ以来、蛾が怖くてダメなんです。
怪獣とヒーロー [pp. 17-19]
大県: 怪映はどうです?僕らの世代だと、ウルトラマンごっこやったり。あと「ゴジラ」や「ガメラ」はテレビでも時々放映するじゃないですか。それでゴジラ派、ガメラ派が必ずできて。
庵野:「ガメラ」も見てたし、 "東宝チャンピオンまつり"も行ったんですけど、そんなに僕、「ゴジラ」の影響ってないんですよ。むしろテレビの巨大ヒーロlの方ですね。
竹熊:「仮面ライダー」は?
庵野:「仮面ライダー」は最初の八話までです。全話LD買っていても、見るのは最初の二枚だけとか。残りのやつは、封も開けてない(笑)。
竹熊: やっぱり、いま見るとちよっと。
庵野: かなりひどいですよね(笑)。ただ「ライダー」の一話と二話って、けっこう見直せるんですよ。何かあったら必ず見直すんです。なんか、マンガもアニメも”それなり "なんですよ。大半はやっぱ見ててつまんなかったし。どっちかと言うと、熱中したのは「ウルトラマン」とか、そっちの方ですね。あと「ITC」物とか。
大泉: ウルトラシリーズはどのあたりまで見てたんですか。
庵野: えーと、「ウルトラマンェース」から抜けはじめて、「ウルトラマンタロウ」が途中まで。あれは大人になって初めてあの良さが(笑)。
竹熊:「タロウ」、ださかったよね(笑)。
庵野:「ウルトラマンレォ」も大人になってからですね。「タロウ」と『レオ」の良さは、やっぱり年をとらないと。大人にならないと。
竹熊:「タロウ」のどこがいいんですか(笑)?
庵野: 世界観がいいです。要するにあれは、小さい子供の夢の世界なんです。それまでツリアスー辺倒だったウルトラツリーズの世界観を、あそこで子供向けのファンタジーな世界に戻そうとしたと思うんですよ。「なんでもあり」の世界ですよね。特撮もナイスです!
竹熊: ああ、そうか。だから子供だった僕にはダメだったんだな。子供って、いかにも子供然としたものより、アダルトな方に憧れるから。
大泉: 僕は「エース」の時ですね。これはダメだって感じですね。
庵野:「エース」は圧倒的にデザインがカッコ悪いんですよ。「ウルトラマン80」も、とにかくヒーロがカッコ悪い。あれで損をしましたね。「80」の特撮技術はすごいんですけど。「帰ってきたゥルトラマン」はグㅡですね。これは本編がいい。かなりのめり込んで見てました。
白黒テレビでマトを [pp. 19-20]
竹熊: それで問題のヤマトなんですけど。
庵野:「宇宙戦艦ャマト」は最初、白黒で見てたんです。テレビが二台あって、カラーテレビで妹が裏番の「アルブスの少女ハイジ」を見てて。
竹熊: 二台あって、良かったじゃないですか。
庵野: いや、結局うちが貧乏だったんで、カラー買買っても白黒を捨てないという(笑)。普通、新しいテレビ買えば、古いのは捨てちゃらじゃないですか。
竹熊: 邪魔だからね。
庵野: それを捨てないで。途中から親がカラーテレビを買い直したんで、古いカラーになりました。色がか薄くて(笑)。番組を知ったのは、最初に「冒険王」に載った松本零士のマンガを見て。
竹熊: ああ、アニメとタイアップでやってましたね。
庵野: ええ。メディアミックスで、松本零士がマンガ版を連載してて。第一話の最後が夕日に沈むャマトのあのコマで、すごくひかれた。だから「冒険王」読まなかったら、たぶん人生変わってましたね。
もう僕は勉強しない [pp. 20-22]
庵野: それで高校になると、小遣いがガンとあがったんですよね。
大泉: いくらもらってたんですか。
庵野: 五〇〇〇円なんです。
竹熊: それはでかいじゃないですか。僕は二ニ五〇〇円だったな。
大泉: 僕は三〇〇〇円だった。
庵野: それはですね。地方の一番有名なというか、いわゆる進学校があるんです。宇部高というところなんですけれども。そこに入ってると、地元じゃエリートと言われる。そういうところなんですよ。
そこに入ったら、親が小遣いを五〇〇〇円にすると。それで受けたんです。
竹熊: じゃあ親も、ちょっと無理して、みたいな。
庵野: ええ。相当無理してたと思います。そこからですね。マンガとか|小説とか買い始めるのは。やっと経済力がついて来たんですね。たまたまその時、苦手だった英語の出来が良かったんです。たぶんギリギリで入れたぐらいの気がするんですけど。それで高校の入学式の時に誓ったんですよ。もう僕は勉強なんかしないと。
大泉: 素晴らしい。
庵野: 中学までは、勉強も面白かったというか。でも高校に行ってまで、なんで勉強すんだろうと思って。まだ波動とか、確率論とか面白かった。でも数ⅡBになったら……裁積なんて、社会に出て何の役に立っのか。
大泉: まさしく。
庵野: 進学校だったので、授業もほとんど受験勉強なんですよ。そんなもん何が面白いんだろうって感じで。だから高校に入ったら、マージャンとかマンガや八ミリとか、そんな感じで。友達とずっとマージャンしてて。
竹熊: 酒は飲んだりしました?
庵野: 酒は飲んでました。タバコはやらなかった。タバコはいまでもやらないっスね。当時は高校から帰ったら、即マージャンという感じでしたね。特に試験中は(笑)。
伝説のヤマト特集 [pp. 22-26]
竹熊: それで七六年か七七年、僕らが高校一年か二年ぐらいで、アニメブームが起きるじゃないですか。
庵野: そうですね。
竹熊:『OUT』創刊二号でのヤ マ ト特 集 。 あれは鮮朋に党えてる。 まさか アニ メを特集する雑誌があるとは思わなか っ たから、 ぴ っ くりしましたね。
庵野: ええ、マッハ速攻で買いました。最初、「OUT」の創刊号を友達が見かけたたんです。次でヤマト特集をやるというのが予告で出てて。
竹熊: 僕も創刊号の次号予告で、「君は覚えているかあのやす熱い血潮を!」みたいなキャッチョピーが載ってて、あれっと思なんでヤマトを、いま頃こんな雑誌がやるんだと。放映が終わって何年たってるかって。...思えば、あれがすべての始まりだったわけですね之 (造い目)
庵野: ヤマトブームはそうですね。火付けは間違いなく「OUT 』でよう。落在的なファン層はあったんです。中二の時から僕はずっと「ヤマト」の布教活動をしてましたからね。やっぱり高校に行くと、数人りるんでずよね。 『ャ マ ト』 好きだ っ た奴が。 それで仲問みたいにな っ て。
竹熊: それで 『ヤマト』 がブームになって, 馴揚版ができて。
庵野: ああ、 見主した。
竹熊: 僕は新宿の束映パ レ スで上映したのを見たんでず。 最初の劇場公開版。 行ったら、 もう劇揚を二重、 三重に人が囲んでて、 すごぃ熱気でした。 あれがア ニ メに行列ができた最初。
犬慕: それは幾っの時でずか。
竹熊: だから高二ぐらい。 七七年かな。 ャマトブームが起こって半年後ぐらいに、 劇場版できたんでしたっけ。
庵野: あれは再編集のゃっが劇揚にかか っ てから、 プームになったんでナよ。 初めはファ ンクラブですね。 ヤマトのファンクラブっていうのがあちこちにできて、 そ~」を曹さんがう菫く利用したんでずよね。フ ァ ソクラプ、 僕も入っ てたんでずけど。 協力要詰の葉害が来たりしました。 葉害が五枚来て、 それで深夜放送でリク ェ ストしてくれっ て。『宇宙戦艦ャ々ト』 の 「賣っ赤なスカーフ」 をかけてくれってぃう。 それで碓か 一 位になって、 かかったんです。 僕は出さなかったけど。
竹熊: 当時はア ニ メの歌が、 ちゃんとした音楽扱いでラジォでかかるっていうのが、 前代未關だったわけですよね。
庵野: それまでア ニ メ ファンとぃうのはほとんどなかったと思うんです。『ヤマト』 が初めて (っスとしての) アニ メファ ンを作ったんだと思ぃますけどね。 要ずるに中学にもなって 『海のトリトン』 の話をしているとか`、『勇老ライディーン』 の話をしているよぅな女の子と、 あとは 『ャ マト』 の話をしてぃるよぅな男の子が、 学年揃えても 一 〇人ぐらぃもぃなかったのに、 それが初めて全国区になった。 僕の知らないところにも`、『ヤ マ ト』 を好きな人が、 こんなにいたんだと。 あれがぃまのォタクのハシリでずよね。 『ヤマト』 が好きとぃラだけで、 強烈な伺胞意誠っていうんですか。
竹熊: 連帯感が持てたと。
庵野: ええ。 それがダー ッと蝋えて。 もう万単位でずよね。 万単位でそぅいう人が増えるとぃうのが、ものずごい安心感にっながったと思うんでず。 それがァ ニ メファンというものを作ったと思うんです。 市民権を得たという錯覚の屯とだったんですね (笑)。
さらば「ヤマト」よ [pp. 26-28]
庵野: そこからスタートしたんだけど、 『ャマト』 は劇場版で 一 回冷めちゃい主したね。 こんなに人が周りにいると、 なんかもうぃぃやって。
竹熊: ああ、 同じだ (笑)。 僕も 『ヤマト』 の最初の劇場版を見て冷めて帰っ て来た記憶がぁるんですよ。 なんだテレビの再編集じゃないか` 手抜きじゃんこれはって (笑)。
大泉: 劇場版は普通に見てたなあ。
庵野: 『さらば宇宙戦艦ヤマト』 を見た時には、 周りが皆泣ぃてるのを見て、 笑ってたんですょ、 僕ら。
竹熊: スーッと引いてく自分っ てぃうの?
庵野: ええ。 僕らのグループだけ笑っ てたんです、 ラストで。
竹熊: すごくすれっからしのマ ニ アになっちゃ ったわけでずね、 その時点で。
庵野: まあそうです。 現に、 あのラストは、 僕は好きじゃなぃんでずけどね。
竹熊: 『さらば~』 は最後に主人公が特攻して、 ジュリーの歌が流れたっていぅのだげ覚えてる。 ヒロインの森雪が死んで、 森雪の亡骸と 一 緒に古代進がヤ マトを操縦して、それで敵めがげて特攻するんだよね。
庵野: あのあたりはもう、 ゃらせのご都合にしか兄えなか っ た。
大泉: 俺も 『ヤ マト』 の記憶ははっきりしてないでずけど、 拡放波郵砲っていうのは、 何に出て来るんですか。
庵野: あれはアンドロ メダという新造戦艦にっぃてるゃっです。 『さらば~』 に登場ずる兵器でず。それでァンドロ メダがやられて、 ヤマトが出て行って、 岐後、 特攻って話でずか。
庵野: そうです。 いゃ、 それで敵が巨大な都市型宇宙船じゃなぃですか。その中から巨大宇宙船が出て来るんです。 もうラッキョの皮むき。 最初は彗星だったのが。
竹熊: ああ、 思ぃ出した。 白色彗星。
庵野: 彗星から都市型宇宙船が出て来て、 それが壊れたら中から巨大戦艦が出て来て、 みせしめに月を壊すんです。 それで月を壊したあと、 ゾーダ大帝、 何にもしないで帰っちゃうんでずよ。
竹熊: 月を壊して, 満足して (笑)。
庵野: それをわざわざヤマトが追って行ってゃっ っけるんですよね。
竹熊: じゃあストーリーとしては、 目茶苦茶ですね。
庵野: 破綻しているんでず。 全然ダメなんでず。 それで古代が死ぬ意床もないんです。 単に悲壮感を出して、泣かせるためのものなんです。 そんなんに誰がは主るものか っ ていう (笑)。
八ミリ映画に夢中 [pp. 28-32]
大泉:『ャマト』 でアニ メブームになって、 ゥチのかみさんも高校でアニ メ同好会作っちゃうんでずけど。 庵野さんは作りました?
庵野: いゃ, アニ メ同好会なんて, そんなのないんてナよ。山口県というのが、 頭の固い土地で。マン研もなぃんですよ。 ぃ菫は知らないでずげれど、 当時はどこにもなかったです。 まあ美術部の中に、マ ソガの好きな奴とかが若干いるとぃうだけで。それで美術部の部長になっ てですね。 部長になったからには、 部雅は全部俺のもんだって。 で、 アニ メーシ ョ ンを勝手に作り姶めたんです。
大泉: もぅ作ったんですか。
庵野: 高二の時に、いままで貯めた金をはたいて八ミリ買っ て。 高校の部費が五万円しかなかったんでずけど、 それでセ ルとかセ ル絵の共とか買い集めて, 初めて描ぃたのが、 ャ マトの描き送りの絵で。 奥から手前に航行して来るゃっでしたね。
竹熊: ゃっぱり股初は 『ヤマト』?
庵野: 『ヤマト』 です。 一 番披初に描いたのはそれなんでず。 あと巨大ロボットが爆発ずるシーソだけとか (笑)。 ショート ・ ショートみたいなフィ ルムを 一 気に作って。 それは大失敗でした。皆に謝るしかなかったっスね。テレビァニ メを見たままゃろうって。 イメージBGみたいな背景も描いて、 セルに色塗っ て。 後輩ゃ友達にセ ル塗らせてですね。 自分らでヵセ ットに台詞入れて。 まるでっまんなかったですね。 それでも初めて動いたフィ ルムは感動でしたけど。 あの感勤があったからまだアニメ作ってんでしょうね。
竹熊: アニメ以外の八ミリ映画は?
庵野: ええ。 ヒー ロー物みたいなのを。 当時の八ミリ仲問で、 生徒会長ゃっ てる中村っていうのがいたんですけど、 それのゴロあわせで 『ナヵムライダー』 というのを。
竹熊: ょくあるパターン (笑)。
庵野: でも、 よくできてたんですよね。 当時にすると、 ゃたらと凝っ てまず。
大泉: 発表の揚は文化祭? 客の反応はどうでした?
庵野: ゥヶましたね。 でも最初にできたフィ ルムを見た時の方が嬉しかったでずね。 そっちの方が大きいですね。 客ゥヶは、 まあ二次的なものでした。
大泉: ああ、 動いたっていう。
庵野: ゃってることは、いまとそんなに変わらないですね。 他に粘土やパぺ ットの真似事をちょこちょこっとやって、その後姶めたのが紙のアニ メなんでず。
竹熊: 切り紙アニ メ?
庵野: いゃ、 切り紙じゃなくて、 紙にピグマで絵を描いて、 セルを使わなぃ。 上京した時に見た自主ア ニ メに影響受けたんです。『PAF』 (プライぺ ート・ァニメ ・ フェステ ィバ ル) っ ていうのがありましてね。 そこ に"グループえびせん"という自主製作グループが参加してたんです。 そのメンバ ーの原さんがゃった 『セメダインボソドG17号』 という作品がすごく面白かったんですよ。あの時、目からうろこが落ちたんです。
竹熊: ああ、こうぃうアニ メもあると。
庵野: ええ。 セルアニ メじゃなくて、 紙にサイソべ ンで描いて、 それを撮影して。 ちょこっとだけ色がっぃてる。ヮソポイントで。
竹熊: 『エヴァ』の二六話に出て来たような、あれですね。線画のアニメ。
庵野: あれを見て、セルアニメじゃなくても、アニメーションって面白いんだって。それからは紙アニメばっかりですね。手軽ですから。一〇〇円の計算用紙でいいんですよ。ピグマで下描きもなしに、描き送りなんですけれど。これは超面白かったですね。
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1. ファンの間で "監督によるストーリーの扠乗か?" "これは目己啓発セミナーではないか?" と物議をかもしに 『新世紀エヴァンゲリオン』最終二話のこと。
二四話までのSFドラマは完全に放棄され、学夜の体育館のような外界から隔離された場所で、 他人恐怖症の主人公・シンジが、也のキャラクターだちから質問攻めにされている。 シンジはむき出しの心惰を吐露し, 目分と自分を取りまく世界との聞係, その将釈の仕方による「自分」の成り立ちを整理する。そして最後に世界をボヅティブにとらえ、そのせ界を生きる自分を自由に演じることで、自己を肯定する結論に至る。シンジは周囲の祝福を受け、 再生すろ。しかし主人公の苦悩の解消を箱庭痺法めいた観念劇ではなく、本来の物語中で問うていくことは放乗されたままであり、 ファンの非難もこうした監督の態度に集中している。 ビデオ版・馴場版での "補完" が期待されている。
Here's the second chapter, introduction pp. 33-35
竹熊: 大阪芸大は現役合格ですか。
庵野: いや、浪人です。一回目は、国立の教育学部を受けたんですけれど。共通一次の英語が四〇点で。全然ダメでした。それで一年遊んで、二年目はさすがにもう、どこでもいいから親に入れと言われて。それで案内を見たら、大阪芸大というところが当時は学科試験なしだったんですね。実技のみで。
大泉: (笑)おかげで大阪芸大、すごい人材生み出してますからね。
庵野: 映像計画学科を受けたんですが、試験が絵コンテだったんです。当時、宮崎(駿)さんの絵コンテを、友達が買ったりして見てたんです。『未来少年コナン』の絵コンテを、日アニ(日本アニメーション)が売ってたんです。通信販売で。それを見て。
竹熊: 勉強して?
庵野: いや勉強してというか。こんな感じでやればいいのかと。あとで担当教授に聞いた話だと、僕のはかなり優秀だったそうです。ここまで描き込んだ絵コンテというのは、いままでなかったと。専門用語まで書いてましたから。背景指示とかフォローとか。
大泉: そうすると大阪芸大で、一躍エリートになるわけですね(笑)。
庵野: まあ大阪芸大に入って良かったっていうのは、赤井(孝美)とか山賀(博之)がいたってことですね。
竹熊: この時期の大阪芸大というのは、そういう意味ですごいですよね。
庵野: うーん、まあ。でもそうでもない人も多いですよ。僕の感覚だと当時の大阪芸大は、四年制の専門学校ですから。誰も勉強する気がない。映画をやりたいから来てるわけでもないんですよ。入りやすいから来てると。ファースト・ピクチャーズ・ショウと言って、二回生になるとフィルムを三分間作って、全員参加で発表する。出せば単位になるんです。とりあえず三分のフィルムを出さなきゃいけないという時に、その大半はゴミのようなフィルムなんです。なんでこの人達、ここにいるんだろうなって。ずーっとフィルム流しっぱなしにして、音楽入れてるだけっていう。でも、その中で、やっぱり何本かはいいのがあるんですよね。一回生の時は赤井と合作で紙アニメを出しました。山賀に撮影手伝ってもらって。それが大学で作った最初のアニメですね。
[ 山賀博之との出会い] [pp. 36-38]
庵野: 僕は山賀と同じ寮だったんです。それで大家さんのところに挨拶に行った時に山賀がいて、初めて話をしたんです。
竹熊: 初対面の印象は?
庵野: なんかおかしい奴。
竹熊: 向こうもそう思ったでしょう。
庵野: らしいですね(笑)。それでなんか話ないかなと思った時に、僕が「『機動戦士ガンダム』って見てました?」って話をしたら、向こうが「ガンダム、何それ?」って。新潟(山賀氏の出身地)じゃやってなかったし、そもそもアニメって何も見てなかったんスね。
大泉: 山賀さんとは、よく行ったり来たりとかしてたんですか、部屋同士で。
庵野: うん、そうですね。
大泉: 僕が大学の頃は、哲学の勉強やってるか、マージャンやってるかって。やっぱり寮みたいなところだったんですけれど、マージャンは、その頃は切れてたんですか。
庵野: きれいさっぱりです。マージャンやる暇はなかったですね。と言うか、マージャンやる友達がいなかったですね。フィルム製作ばかりで。
竹熊: やっぱり山賀さん、赤井さんの影響というのもあるわけでしょう。
庵野: 大きいですね。
竹熊: お互いに一目置きあうみたいな関係?
庵野: どうなんでしょうね。僕が一番バカだと思いますけど。マジに。
竹熊: 山賀さんっていうのは、映画青年というイメージがあるんだけど。
庵野: いや、全然。彼、あんまり映画見ないですよ。有名になるための方法論が映画監督だったということで。だから映画監督になるにはどうしたらいいんだろうというので、淀川長治のエッセイを読んだらしいんですよ。そこに「同じ映画を一〇回見れば、誰でも映画監督になれる」って書いてあったんで、それで『がんばれベアーズ特訓中』を一〇回見て、これで映画監督になれるって。
大泉: (爆笑)
竹熊: ただものじゃないね。よりにもよって『ベアーズ』……。
庵野: 『がんばれベアーズ』ならまだわかるんですけど、『特訓中』ですから。つまんないと言ってましたね。
竹熊: そのつまんなかったやつを一〇回も。山賀さん、それでもう映画はわかったと。
庵野: 映画監督にこれでもうなれると。
大泉: 実際なったからすごいね(笑)。
ガンダム放映開始! [pp. 38-42]
大泉: 『ガンダム』のテレビ放送って、何年ですか。
竹熊: 七九年。
大泉: それで大学に入ったのが。
庵野: 八〇年。
大泉: じゃあ、浪人中に見てたんですか。
庵野: ええ。かなり本気で見ました。それまでもロボット物はけっこう見てたんですけど、やっぱり、すごくバカバカしいじゃないですか。
竹熊: まあ、ミもフタもないことを言えば(笑)。
庵野: 『マジンガーZ』とか、子供心になんかすごく頭が悪いと思ってたんですね。だって、どう考えてもアシュラ男爵の方が勝てるわけじゃないですか。なんで勝てないんだろう。頭の悪いアニメばかりだったんですね。ところが『ガンダム』の予告を見た瞬間、「これは違う!」って。
竹熊 :『ヤマト』以来の、なんかクルものがあったと。
庵野: 起き上がって、目が光るっていう有名なカットなんですけれど。その予告を見た瞬間ですね、「新しい!」って感じですね。それで一話見たら、しびれてしまいまして。もうあとはビデオ録りですね。
竹熊: もうビデオは持ってたんですか?
庵野: 持ってないですよ。だから近所の電器屋に、ビデオテープ買うから、ビデオデッキ貸してくれって。
竹熊: ああ、その手で? レンタルビデオデッキ(笑)。
庵野: 無理やりなんですけど。当時、ビデオ持ってる友達が近所に誰もいなかったんですよ。高くて。
竹熊: メチャ高かった。六〇分テープ一本が何千円でしょう。
庵野: そうなんです。まあそのテープを買うから、とにかく録らせて、店頭で見させてくれっていう。もう電器屋の迷惑かえりみず。当時、新聞配達やってたんで、リアルタイムで見れなかったんです。最初のうちは、それでもしようがないんで配達さぼったんです。そのうち近所の人から、「金曜日になると、夕刊がいつも七時ぐらいになるね」「いや、なんか金曜は荷物多くて大変なんですよ」とウソついて(笑)。配達途中で抜けて、家に戻って見てましたね、ガンダムだけは。でも、さすがに辛いんで。
竹熊: それでビデオを。
庵野: 電器屋に五時三〇分前に必ず寄って、それでガシャーンと自分でスイッチを入れてから配達にまた戻る。
竹熊: ああ、電器屋で撮ったと。それはすごいな(笑)。
庵野: 配達終えたあと、電器屋に行って、その場で見るってやつですね。
竹熊: 『ガンダム』が決めちゃったわけですね。いまの庵野さんの道を。
庵野: まあ、『ヤマト』『ガンダム』ですね。ただ『ヤマト』の熱気というのは、途中で冷めたじゃないですか。他のアニメも見てたんですけど、そこそこでしかないんですよ。本気になりたくてもなかなかなれない。それで、なんかアニメもつまんなくなったなあ、とか思ってた矢先に『ガンダム』がガーンと。ロボット物がここまで……ついにこれが出たんだって。
竹熊: わかる。耐えがたきを耐えて、やっと報われたと(笑)。
庵野: ええ。すべてにおいて、リアルタイムで見た以上、ファースト・ガンダムってエポックだったんです。
大泉: 当時、あれだけ作り込んだロボットアニメがあったっていうのは、やっぱり驚きますね。
庵野: 『ガンダム』からなんですよね。ロボットに人が乗っているというのを意識させるようになったのは。それまでのロボット物って、乗ったら、もうあとはロボットですものね。ロボットが必殺技を叫ぶとかだったんですけれど、ガンダムはロボットの絵の時は、めったにしゃべらないんです。ロボットの画面のところに、わざわざ人の顔だけ画面分割で出て、その中でしゃべる。あれも新しかったですね。すべてにおいて『ガンダム』はロボット物のエポックです。グーでしたね。
『ウルトラマン』事始め [pp. 42-45]
庵野: 僕の通ってた大学は、フィルムみたいなのを作ったら、単位をくれるというところだったんですね。
大泉: まるで庵野さんのためにあるような大学(笑)。
庵野: それで一回生の時の映像実習で、僕らの班はオムニバスでCM集を作ったんです。誰かを監督に立てて、一本作るだけの意見がまとまらなかったので、各人バラバラにCMを作ることになったんですよ。その中の一本が、僕のタイヤのCM28(『じょうぶなタイヤ』)で、山賀がワインのCMを作ったんですね。でもCMだけだとつまらないので、ちょっと番組を中に入れようと僕が言い出して。
大泉: CMを見せることが本来で、そのオマケとして番組を作ると。
庵野: ええCMの方が本編なんです。僕が作ったオマケの番組というのが、『ウルトラマン』なんですよ。
竹熊: はあ、すると庵野さんが後に監督した名作八ミリ『帰ってきたウルトラマン』の原型なわけですね。
庵野: ええ、要するに、カラータイマーだけ作ってですね。素顔丸出しで、衣裳がウインドブレーカーで。それで同じ寮の友達に、芸大のジャージ姿でイダーゲ星人というのをやらせてですね。まあ他愛もないものなんですけど。ウラの空地で撮りました。
竹熊: 『ウルトラファイト』(笑)。
庵野: それで二回生になった時に、ファースト・ピクチャーズ・ショウで、これまた時間がなくて、どうしようって時に、山賀が監督で『ウルトラマンDX』を作ったんです。今度は前よりはちょっと豪勢に。なにがデラックスかというと、まず赤井が怪獣の頭だけ作って、着ぐるみがある。あと前作でビルとかなかったんで、だから今回は牛乳のパックを積み立ててビルにして、そこにぶつかって壊れるのを、七二コマで撮る。スローモーションで、牛乳パックが壊れるところを。ああいうのって、結局音なんですよ。音をテレビから撮ったんです。『ウルトラマン』の本当のビルが壊れる音、ガラガラガラッと入ってたら、それなりに見れるんです。それでまた同じ寮にいる奴が、「じゃあ俺がウルトラマンの最終回を作るか」って(笑)。
竹熊: シリーズ物になっちゃったと(笑)。
庵野: そうなんです。まあそれでウルトラマンが故郷に帰るという話だけ最後に入れて。だからダイコンフイルムでやった時は、〝帰ってきた〟んですよ。
竹熊: ああ、それで『帰ってきたウルトラマン』。その前史があるからですか。やっと飲み込めました(笑)。
庵野: あれはダイコンフィルムの宣伝用の作品として、なんか八ミリを作りたいというアイデアがあった時に、僕の方から企画を出したんです。『ウルトラマン』やりますかと。
ダイコンフィルムの誕生 [pp. 45-48]
竹熊: ダイコンフィルムには、どういういきさつで参加することになったんですか?
庵野: 高校時代の友達が、当時、京都に住んでて、近所にソラリスという喫茶店があったんですけれど、SFファンが常連になってる喫茶店が。そこで彼が武田康廣さんや岡田斗司夫さんと知り合ったんですよ。彼の紹介で京都まで行って、ソラリスでその二人と。面白い人達がいるんで、会ってくれといわれて。
大泉: 八一年に、第二〇回36日本SF大会『DAICONⅢ』ですよね。
庵野: ええ。SF大会やるので、それのオープニングでアニメーションを上映したいと。
竹熊: そこから岡田さんや武田さんと関わり始めたと。その頃はもう、二人はSF大会をやっていたわけですか。
庵野: いえ、SFショウというのをそれ以前にやっていましたね。
竹熊: なんか、オタク漫才みたいなのをやってたんでしょう。
庵野: それまでは各地のSF大会に出てくる関西芸人って、二人とも有名だったらしいんですけれど。
竹熊: なんか、名物コンビだったらしいんだよね、岡田さんと武田さん。『スター・ウォーズ』を口真似で全部やるとかさ。それは武田さんでしたっけ。
庵野: どうだったかな。ゴジラの芸は面白かったです。
大泉: なんですか、ゴジラの芸って。
庵野: いや、高圧鉄塔のところのゴジラの真似とか。
大泉: コアですね(笑)。それで、その岡田さんや武田さんがプロデュースする形で、八一年の第三回大阪SF大会で上映した37『DAICONⅢ』オープニング・フィルムを製作するわけですね。
庵野: そこからダイコンフイルムが始まったんです。
大泉: こないだ竹熊さんのところで見たけど、もう全カットにオタクの夢がつまっているという(笑)。
庵野: 山賀が背景を描いて、僕がメカとエフェクトやって、赤井がキャラクターと怪獣を担当したやつですね。『Ⅲ』の時は、主なパートは事実上ほとんど三人でやってたんで。
竹熊: 山賀さんと庵野さんと赤井さん。
庵野: それで次の『Ⅳ』はもっと規模を大きくしたいというので、山賀が監督という形で立って、自主アニメなんですけれど、プロのシステムというのを導入したわけなんです。そのために山賀が東京に行って『超時空要塞マクロス』を手伝いながら、プロの仕事を見てきたんですけれどもね。
竹熊: もう『マクロス』が?
庵野: 始まってました。
大泉: それは大学何年ぐらいの時?
庵野: 大学何年でしたっけ。いや二年ぐらいまでしか行ってないです。三年からもう学校行ってなくて。大学二年の時が『DAICONⅢ』です。
大泉: 卒業してないんですか。
庵野: してないです。放校処分です。
大泉: 優秀な学生だったから(笑)。
庵野: 三年目には大学、行かなかったですね。『帰ってきたウルトラマン』とか『愛國戦隊大日本』とかが始まっちゃって。
ウルトラマンになった理由 [pp. 48-53]
大泉: 『帰ってきたウルトラマン』の話って、庵野さんにとっては、ある種原点という感じですか。
庵野: あれは原点です。
大泉: 俺、もうゲラゲラ笑っちゃったんですけど。一番初めにウルトラマンになった時の気持ちというのは、どういう気持ちだったんですか。
庵野: 気持ち良かったですよ。昔からの夢でしたから。
大泉: ポーズとかは、昔のシリーズ見直して、研究してとか。
庵野: いや、もう身についてたから。『ウルトラマン80』までは全部、真似できます。
大泉: 顔もなんとなく似てるような。
庵野: 僕一八〇あるんで、初代ウルトラマンの役者さんと同じ背の高さなんですよ。やっぱりイメージというのは大事です。腹なんて出てると、イメージがなんともなんないから。
竹熊: 『帰ってきたウルトラマン』は製作中、かなり煮詰まったとか。
庵野: 凝りすぎたんですね。圧倒的に。ダイコンフィルム製作で『愛國戦隊大日本』『快傑のうてんき』と三本立てで進行してたんですけど、それをまとめてTOKON8に出さなくてはいけなかったんで。
竹熊: 東京のSF大会。
庵野: それに出すというのが当初の目的だったので。もうこのままだと間に合わないというので、グループとしては『ウルトラマン』を凍結して、『大日本』を完成させるために、一回、中断したんです。MAT本部の撮影後に。とにかく本部の司令室のセットを組んじゃったんで、そこは全部撮っておいて、一回中断。それでTOKONが終わってから、九月ぐらいに……。
竹熊: 撮影再開?
庵野: ええ。やっぱりその後、僕は壊れてたんですね。中断して緊張感が切れて。それで九月ぐらいに、やっぱりこのままじゃあイカンと。
竹熊: 完成させねばということで。
庵野: ええ。それで撮影を再開したんですが、もう泥沼だったですね。最初、阪大の友達のところで、ほとんど居候みたいな形で住み込んで、ミニチュアを作りながら撮っていったんですが、全然ラチがあかない。それで今度は米子にある赤井の実家の方に詰めて、そこでオープンのロケをやると。それでも撮りきれずに帰って来て、大阪のじゆう十そう三にスタッフのベースになってたマンションがあるんですけれど、そこで残りを全部撮るという。その頃はもう、グチャグチャでした。
竹熊: 庵野さんの行き詰まり癖というか(笑)、完全主義が出ちゃったわけですね。
庵野: あの時は、とにかく人間関係の問題がでかいんですけど。皆、学生ですからね。報酬があるわけじゃないし、こっちは学校を休んでやってくれと言っているわけですね。周りの人間巻き込んで、留年までさせてるんです。
大泉:『ウルトラマン』で留年(笑)。
竹熊: そこで責任というものが、庵野さんの肩に……。
庵野: それに応えるだけのものを作んなきゃいけない。とにかく疲れきってました。一日二四時間、それしかやらない暮らしになりましたから。
挫折、そして決別 [pp. 53-58]
庵野: そうなった時に、正月だけ休みになったんです。正月は実家に帰って、その間にフィルムを編集する予定だったんですけれど、実家にスプライサーが無かったんですよ。
竹熊: ああ、編集する装置が。
庵野: ええ。二トラックのものがなくて、一トラの編集機しかなかったんです。買おうにも金がなくて、なおかつ正月休みでテープも売ってなかったんです。だから作業ができなかったのをきっかけに、五日間、もう友達と遊んだんです。これじゃできないやと思って。スタッフに連絡もせずに、なまけちゃったんです。その時に、連絡入れれば良かったんですけれど……。
竹熊: 責任問題が発生しちゃった。
庵野: ええ。結局、やらずに大阪に戻って、武田さんや岡田さんに怒られました。いま考えれば、そこで怒って、僕をやる気にさせるという方法論だったとも思うんですけれど、僕はそこでめげちゃったんですよ。もういいやって。
竹熊: その時の話を岡田さんから聞いたんですけど、岡田さんが言うには、庵野さんがなまけて、正月休みに編集してこなかったというので、この編集は別の奴にやらせると。それで、赤井さんにバトンタッチですか?
庵野: ええ。
竹熊: だから自分達で作品を仕上げるから、庵野はもういいみたいなことを言ったら、庵野さんがそれから七時間、喫茶店のその席で、ずっと悩んでたっていう話を聞いたんだけど(笑)。
庵野: 七時間もいたかな。
竹熊: 七時間だかなんだか、とにかく延々いて、喫茶店から連絡があって、まだあの人いますけど……みたいな。それで岡田さんが喫茶店に戻ってみたら、庵野さんが別れた時と同じポーズで悩んでたっていう話を聞いたんですが。
大泉: それは本当なんですか。
庵野: ショックでしたからね。……要するに、まさか(自分の作品が)取り上げられるとは思わなかったんです。それでああ、(仲間にとって自分の存在は)どうでも良かったんだって。結局、連絡しなかったというところが問題だったんですね。イカンですよね。
竹熊: そこで岡田さんや武田さんに電話すればいいじゃありませんか。
庵野: 僕、貧乏くさいんで、長距離電話すると、金が実家にかかると思うんですよ。まあ、大阪に帰ってから話せばいいやって。要するに、電話代がもったいないと。サボる理由が欲しかったんでしょうね。連絡しなかったのは、確かに悪いと思ったんですけれど。一番ショックだったのは、まあ一年近くそれしかやっていなかった自分の人生みたいなものが簡単に取り上げられてしまった、ということですね。自分はその程度の存在だったのかと思い知りました。もともと責任感薄いんですよ。なまけ者だし。つくづく監督には向かない、と思いました。でもその時は自己嫌悪よりは、簡単に捨てられたショックの方が大きくて、そんなグループはもう嫌だと、東京に『マクロス』手伝いに行ったんです。その後赤井が完成させてくれたフィルムを上映会で見た時は、号泣しましたね。監督降ろされた時の慰めと励まし、そしてフィルムを完成させてくれたこと等、言葉にならないですね。赤井には感謝程度じゃすまないです。結果、またグループにも戻ったし。